しどけなき眠り
Ⅰ
「直治は」
妻の声はベッドから醸される湿気と共に背中へと追いすがった。水を口にふくんでから喉を少し鳴らして応えようとすると、加減を違えて声が掠れた。
「やっぱり子供は欲しくないの?」
ペットボトルを握る手が止まった。思わずキャップをつなぎ止めていた真白い輪の中から覗く、水面の波紋を凝視した。いくらかの間、部屋は静まっていた。
「どうして?」
向き直ると、今度は恵の瞳が静止していた。見開かれた直治の姿を受け止めるような、丸く大きな瞳だった。
「ごめんなさい」言いながら、恵は視線を外した。
「謝らないで」
俯き加減の妻へ歩みより頬を撫でてこめかみのあたりから髪へ触れた。二重に裂かれた瞼の下で瞳が揺れ、直治の視線と結びあうまでゆるやかに立ち上った。まるでおびえているかのようだった。耳の上にたわんでいる毛先を指の腹で擦ると、まさぐられた側の瞼がかすかに痙攣してうごめき、はなすと、引きつりがきえてひらいていく。
飲んでいたボトルの残りを恵へと差し出し、恵が半身を起こしながらそれを受け取ると、彼女の頬から離れた指先をシーツにもたせかけながら直治は隣へと腰かけた。そして諸手の指先でキャップとボトルをそれぞれつまんだままに、妻の身体が胸の下へ水を流し込むのを黙って見つめていた。
汗にしみぬれた肘掛けがはがれて、恵の腿の上にもたれた。先頃まで夫に愛撫されていたそのままの体が橙色の保安灯に照らし出されて浮かび上がった。初めて恋人としてその裸を見た時から、名前に似つかわしい豊かな体だと思っていた。豊満なのではなく、白い肌に丸く包みこまれた肉がすべて静かな乳房のようになめらかなものを堪えてるような感じがした。
(この体と俺の体が混ざるのか。子供の体では)
洗面台で毎日顔を合わせる、片側のこわばった唇、猿のような横じわの寄る、渇いた額を想った。そしてこの顔に口づけされ、泣き歪まされてきた女たちの姿、その身体に甘え唾を飲み下しながらつくられた、うすぎたない己の身体をも想った。想い出の中にすまう女達の間に、恵との関係を決めるために捨てた相手の顔もあった。
別れを告げた逢瀬の後、女の方から直治を改札口まで見送った。終電が間際に迫った人々の波の中で、束の間だけ振り返ってしまった。そのとき捉えた表情が記憶に焼きついて離れない。
「どうして」
はじめ女はそう言っていた。
「嘘をついていたんだよ」彼女との可能性のひとつひとつをそぎ落とすようだった。「だから俺のことを呪ってくれていいよ」
何故、電話口や文面で一方的に伝えることもできたのに、わざわざ予定を組んで面と向かって伝えなければならなかったのか自分でも分からなかった。ただこうしなければあの顔に出会うことはなかった。女の面貌には絶望へと崩れ去る直前の悲壮と同時に感謝の念ともとれる不思議な感情が浮かんでいた。思えば一方的だったのみならず嫌味でさえありえた自分の態度に何故彼女がそんな顔を向けることができたのか、今の今まで一向に理解できる気配はない。そもそも何故自分がそんな読み取り方をしたのか、しかしナルシスチックな思い込みと捨てるには確かすぎる実感がその日の胸にはきざしていた。彼女のことを想い起こすたびにその光景が一層確実な感触を持って直治を苛んだ。
しばらくして直治の方からは一度も浮気をしなかった相手であるはずの妻が、他の男と関係を持っていたことを知った。結婚して三年経ったときのことだった。そのことを報せとして聞いたとき、思わずあの女の呪いが通じてしまったという考えがひらめきつづけた。
古い友人が急に連絡を寄越し、偶然知らない男と歩く恵を見たと言いだした。互いに仕事が忙しくなり顔を合わせる時間が露骨に減っていたために、兆しらしいものにも触れられず話だけでは真偽を判定することもできなかった。だが報せた友人は調子のいいからかいをするような男ではなかった。
「一応、写真もあるんだ」
友人が電話口で言った。ため息交じりの呼吸から彼自身相当迷って伝えているのがわかった。予断はなかったが、不倫が事実であることはむしろ彼の態度から直感した。
「いい。見たくはない」
「放っておくのか」
「それでもいいのかもしれない」
深い息づかいが電話越しに聞こえた。こんなにも親身になってくれる友人が自分にいたのが驚かれた。急に打ちひしがれてうまい落ち着き方もわからなくなっている間は彼の性格を心強いとさえ感じていた。
「あんまりかわいそうだ」
「よせよ。友達からそんな同情買いたくないよ」
「やるせなくなるんだ。人間にこんなことができるのかって」
「俺はお前ほどいい人間じゃない。報いを受けたと思えばいい」
「誰だって若いうちは罪を犯すけど、大人になったらだめだ。結婚までしたらもう一人の身体じゃないだろ」
知ってしまったことを妻に伝える前に、義憤にかられた友人が探偵まで雇い証拠を集めていった。事の流れが既に夫婦の手から離れているのを感じた。しかしそれを促されるままに頼んだのは他でもない焦りと落胆に暮れた自分自身だった。ちいさくたぎっている復讐心を世話焼きな友人の怒りにかこつけて許してしまった。
本当なら自分も彼に断罪されるべき人間のはずだった。かつて恋人や行きずりの相手を裏切り、切り捨ててきた自分が、いざ身を固めてからそれを受ける側になるとこんなにも脆いものかと苦笑した。
「もう確実だ」出るものも出たという頃、電話口で友人は言った。「これからどうする」
事態を明るみに晒しておきながら、そう訊くのは投げやりなようにも思えたが、乗りかかった舟だった。不条理なことだとは、友人も承知しているのが痛いほどわかった。直治にしても、彼のような正義漢に味方をされていることが、しばらく心の支えですらあった。
「どうすればいい」
「俺なら」彼がいっとき口ごもるのがわかった。「離婚してしまうかもしれない。まだ子供もいないのなら」
「そんなことは──」
「無責任な人が母親だったら、生まれる子供も何を信じればいいのかわからなくなる。俺が許せても、そのことはないがしろにしたくない」
性急すぎる判断には違いなかった。しかし友人が昔家庭の愚痴をこぼしていたのが思い出されると、その言葉は説得力を帯びていった。遊び歩きながら子への溺愛と干渉のやまない母親への複雑な思いが恋人に投影され、うまくいかないのを学生の頃何度か聞かされた。
「もしかしたらその男の子供を妊娠したのを誤魔化すためにお前と子を作りたい風を装うかもしれない」
「空想のいきすぎだ」
「でもあり得る話だろ」
「やめてくれ」
毎夜二人で並んで寝ているはずのベッドに背を預けながら、うなだれるしかなかった。顔をあげたところにある窓には雨粒が張り付いていて、明かりをつけずにいると曇り空を透けてそそぐ光のひろがりが心地よかった。夕刻で明かりの差しこまないところは暗く、直治のつま先はちょうど明暗の境に触れていた。
外出から帰ってきた恵に事を伝えると、たちまちに涙を流して膝を崩しかけた。泣き咽ぶ妻を抱き止めながら、優しい人で良かったと直治は胸を撫で下ろしていた。脳裏には開き直って去っていった思春期の恋人達の姿があった。
「私のこと、まだ許してない?」
ボトルを傍らのテーブルに置いて、恵はまた裸のまま身を横たえた。直治は足をベッドに乗せ背中を支えに預け、恵の身体と並んだ。
「そんなわけないよ」
咄嗟に直治は応えていた。だが自らそう口にしてからどっしりした違和感が鎌首をもたげた。
(許す――俺が?)
幼い頃、幼稚園の庭でうずくまって泣いていると、次々に子供たちが寄り集まって「誰が悪いの?」と訊いた。確かに誰かが自分を蹴飛ばした。誰かが自分から玩具を取り上げた。しかし、その誰かを指すのは憚られた。「誰も悪くない」と言いたかった。
(でも俺は悪いじゃないか)
街で出会ったあの女を、気の向くままに身も心も目一杯愛撫した後に、すげなく捨てた。そうして得た新しい女を妻にして、我が物顔で幸福そうな生活を領している。そんな心ない男の妻になって放ったらかされ、他の男に抱かれたこの綺麗な体の人に、一体どんな罪があるというのだろう。しかし確かにそう胸のうちで問うと、彼女のしたことは罪に違いなかった。その罪は自分に対してではなくあの友人が指摘した通り二人の間のものとして生まれてくるかもしれない子供に関わっている気がした。
「恵はなんで俺に謝るの」喉からせり上がってきた言葉を迷いながらぼやいた。だが吐き出した後に後悔はなかった。
「そんなの――」
半身を起き上がらせた恵と視線がぶつかった。そのとき口ごもった彼女を見て、妻が自分の表情から何かを読み取ってくれたと悟った。俯いて何かを探る恵の肩から髪の毛先がふれ落ちて鎖骨から乳房の先へ流れていった。
妻とのまぐわいの時間がいつも、美しい儀式に奉仕しているように直治の胸を充たしてくれた。白く柔い肌を押し分けて奥へと迫っていく前に必ず彼女自身の瞳を直治は見た。その眼差しにゆるされていることを知ったとき、初めて恵の身の内側へと足を踏み入れていくことができた。恵はながく、丁寧な愛撫を何も言わずに要求し続けた。とめどないその仕草に出会わなければ自分は今でも獣のように誰かをむさぼり続けているに違いなかった。
「難しい質問だったかな」
「ううん。わかるの、言いたいことは」
細めた目から潤い豊かな瞳が覗いていた。
「こんな簡単な答えでいいのか、わからないんだけど――」
「いいよ。聞かせてほしい」
少しの間、夫婦は黙ってお互いを見つめ合った。そして恵が目を反らし、手もとのシーツを数回擦ってもてあそんだ。だが間もなく、その瞳は直治のへそからあごまでをなぞるように持ち上がった。
「好きだから」
「好き?」
「身も蓋も無いかな」
脈打つ前のように唇をきゅっと引き締めてはにかんでいるのがあまりにいじらしく、共に紆余曲折を歩んできた相手の仕草とは思えなかった。脳裏ではどうしてか、あの改札口で振り向いたとき捉えた女の顔が膨れ上がって頭蓋から抜け出ようともがいていた。
「俺の、何が好きなの」
妻のしどけなさに合わせて喋る自分が不格好に思えて言葉を口にするのも苦しかった。その間中、女の恍惚とも怨嗟とも取れるあの眼差しが恵の瞳の中から突き入ってきていた。
(俺は、あの人のことも愛していた)
恵とは違う女だった。するどくくびれた腰の下が豊かにひろがっていた。肌は若干浅黒く、化粧が薄くてもはっきりした目鼻立ちだった。殺伐とした街を歩くと妙に持て余す熱を彼女は全て自分へ注ぐように求めてきた。
「殺してくれ」
いつの日か女を抱きながら、直治はそう言っていた。
「どうして、そんなこと言うの?」
「いいから、殺してよ」
「わかった」言いながら、女は直治の腰に足を絡ませた。「二人で地獄行きだね」
何を求めて自分はあの人にそんなことを言ったのだろう。単なるまぐわいの快楽を盛り上げるための言葉遊びではなかった。罪滅ぼしというのも簡単すぎる気がした。
いっそ本当に、逢瀬の最後に一思いに殺して欲しかったのかもしれなかった。別れを告げるためにわざわざ女と会ったのも、最後に名残惜しく振りむいたのも、彼女に後ろから刃物で一突きにしてもらいたかったからかもしれなかった。だが代わりに女は微妙な表情を投げて寄越した。
「どうして?」
あの日女が口にしたその問いに自分が答えらしい答えを返せていなかったことをふと思い至った。だがそれは言葉にならずとも明白に胸の中で姿を得ているように感じていた。
何故あのとき選ばなければならなかったのか。捨てた女のことも、選んだ女のことも、自分は確かに愛していた。だが恵は他の男と寝ていた。自身の犯した罪に怯えて子を妊むことさえ遠慮するようになるぐらいなら、自分などと一緒にならない方が幸せだったのではないか。
「どうして、俺のことが好きなの」
昔、青春のひとときに同じ質問を恋人から投げかけられた。そのときこの言葉は赤子の手遊びのようなあどけない喜びの表れだった。しかし今、こんなにも重苦しい問いは他にはないような気がした。
「あなたが優しいから」
恵は夫を見つめながらそう答えた。その言葉は記憶に残る全ての女たちの口から発せられているように思えた。
Ⅱ
吐いた煙がさらわれて流れ去るのを眺めているうちに、髪をまきあげるほどの風の強さを感じた。コンビニの隣に残された雑木林のさざめいているのが夜中にささくれだった思いを覆って紛らす助けになった。
部屋を出る前に一服してくることを恵に伝えると、
「コーヒーは飲んじゃだめだよ」
と肌掛けを脇の下まで手繰りよせながら、喉奥のうれしそうな声で言った。煙草を吸うのを止めるような素振りを恵が見せたことはなかった。かといって喫煙のある環境で慣れているはずのない妻の育ちの良さが直治にはわかりきっている。それがどうして無邪気な微笑を浮かべることができるのか、気づいてみれば不可解で怖くなった。彼女の寝そべるベッドと自分の立ち尽くす場所の間がどこまでも引き延ばされてひろがっているように見えた。
「必要になったらやめるから」
咄嗟に声をあげた。
「できもしないのに」
「できるよ。二、三日吸ってなくても苛立ったりしないでしょ、俺は」
嘘ではなかった。嘘ではないのに嘘をついているような気がした。恵のからかいのせいではなかった。
外に出ると昼間の暑さが嘘のように涼しかった。夕食どきの天気予報ではまだ猛暑が収まらないと言っていたが、いつもより風のあるおかげでそんなことはつゆとも信じられなかった。
灰皿のあるコンビニへ足を向け歩いている間に公営団地の庭に淡い黄の重なった白色の花が咲いているのを見つけた。花は二輪、茎のてっぺんに並んで、足元の草たちと互い違いになりながら躍っていた。直治は足を止めずに徐々に首を回しながらその花を見続けた。目を奪われたというほどのことではなかったが妙に気を惹いた。惹かれて見ているうちに少しだけ萎んで枯れかかっているのがわかった。
四五階建ての集合住宅の連続が途切れて、コンビニが景色のひらけたところに平たく明かりをしいていた。敷地にトラックと乗用車が一台ずつ停まっており、トラックはひらけた駐車場の中で遠慮なく灰皿の手前につけられていた。トラックの運転手らしい丸刈りの男の脇をさけ雑木林と隣り合うフェンスに陣取って煙草に火をつけると、ちょうど右足を一歩踏み込んで腕を伸ばした場所に灰皿が来た。そばにある車のおかげか普段より景色がせせこましく思えたが、それはそれで居心地がよかった。
煙の乾いた味がのどにぶつかるのとともに浮かんでくる花やいだ匂いが、ちょうど先頃見つめたあの白い花を思わせた。しかしそれはどこかで瞳孔にねじ込まれた、バニラの花のパッケージに掴まされている安い先入観に過ぎないかもしれない。
(やめよう)
その考えはにわかに浮かんだ。同じ銘柄を戯れに吸って親密な演技を交わした相手こそはあの日直治が捨てた女だったのを想い起こしてしまったからだった。手もとの消耗品でいちいち感傷に浸っていてはかなわないと思えば、決心はそれだけで十分だった。思い立ったら、もうどうにかしてこの煙草を手放す算段をつけはじめていた。
箱の中身をみるとまだ六七本は煙草が残っていて、今吸いきってしまうのは少々身体にこたえるのは承知しつつも捨てようと思うと名残惜しさともったいなさがまさった。
「すいません」ほとんど衝動で丸刈りの男に声をかけた。
男の手もとには表面の光沢を消された機械が握られていた。加熱式のものを吸っているらしかった。
「紙だと吸いませんか」
暗闇から話しかけられた男は多少面食らった様子で、すばやく目を見開いた。
「吸います」
「これ、やめるのであげます。受け取って」
有無を言わさないつもりで歩み寄って箱を差し出すと男は余計に訝しんで身を引いた。断るように箱の前へ手をかざしたのでこちらも腕をひっこめようかと案じたが、間もなく軽い会釈をして受け取ってくれた。そしてすぐに手のひらを翻し目を細めた。譲渡が済めば、銘柄を確かめているらしい彼を尻目に足早にその場を去った。一度振り返ってみると、コンビニの鋭利な明かりが彼の姿に当たっていた。見る限りでは男は直治よりもいくらか若かった。
帰路の半ばで再びあの白い花を見ることにした。今度はついでではなく手前にしゃがんで眺めた。暗がりの中ではきめこまかく艶めいている花弁が明かりを帯びてふっくらと映えていた。
蟻が一匹大きな花の上を渡っていた。一匹見つけると二匹、三匹と茎や葉の裏に這っているのがわかった。しばらくじっと見ていると、これが百合の花だったことを直治は急に気がついた。二十歳そこそこの頃、祖父に先立たれた祖母を墓参りに連れていくとき、その途中にこの花があった。
「百合のお花がきれいに咲きよる。きれいねえ」
足を振り子のように振って歩く祖母は畑の端に生えた花を見つけてそう言った。
「百合なの、これが」
背後には自分の暮らす街にはない青く霞んだ山がそびえていた。百合の花はその日もまばらに生えた雑草の間に一房だけ揺らめいていた。
「あんた、知らんの」
「知らなくても困ることはないよ」
「そう」祖母は再び手足を振りだした。「直治はちゃんと勉強しよるけん、だいじょうぶね」
いまだ直治に残っている少年じみたひねくれの跡など気に留める様子もなかった。二十歳の直治はつま先をずらすような細々とした歩調で祖母の前を歩き、掴まれた腕で彼女の身体を引っ張りながら支えた。油断していると祖母が踏み出すごとに肩にかかる力で地面へ引き込まれそうになった。
「ああ、嬉し。お祖父ちゃん、もうすぐ孫が会いにいきますよお。嬉しかねえ。直治はお酒も飲める歳ばなりよるよ」
空中へ向かって祖母は言葉を放った。彼女はよくこういう言葉を人目も憚らず口にして、どこかへ向かって語りかけていた。その身振りや口振りには老人らしい振る舞いを自ら演じているかと疑うところもあったが、遠くに青い山の見える土地では自然なことに見えて、いつしか違和感なく受け容れていた。そうして語られた言葉には、祖母の息子である父も、方々で会う親戚も何も応えずに流した。冷たくあしらっている様子でもなかった。
祖母は直治が恵と結婚して二年後に死んだ。臨終のベッドには指を揃えた手が両胸の傍らへと身を預けており、直治は彼女が最期の瞬間に合掌していたことを察した。そしていつものように空へ向かって何かを語りかけていたに違いなかった。その相手はきっと祖父であったろうということも何故か直治には容易に想像できた。
「ありがとうと言っていたね」
葬式が済むよりは前に父がぼやいた。詳しく何のときだったかは定かでないが、せわしない時期、どこかの薄暗闇にやっとの思いで一息をつきながら並んで立っていたときのことだった。
「誰に?」
「直治にも言っていたよ。最後はずっと、お祖父ちゃんだったけど」
「そうか」稲の若苗が風にたなびくのを聞いた。不思議なほど記憶に染みとおる音だった。「死に目に会えなかったな」
「恨み言はなかったよ。でも、ちゃんと感謝はつたえなさい」
いつ、という疑問は舌を離れる前に霧のように消えていた。目をとじて手を合わせ「ありがとう」と言ってみると、涙が瞼をかきわけてあふれた。泣きながらこれは悲嘆の涙ではないと思った。ぬれる頬を指で拭って会えなくて悲しいのではないと信じながら、祖母の独り言の意味へわずかに触れた気がした。いまいち折り合いの悪かった父とはそのときだけ全くわだかまりのない会話をした。
部屋に戻ると恵は服を着て先に寝ていた。明かりはついていたが眠りの底へ深く往来する息づかいがきこえていた。テーブルに据え置かれていた水の残りをふくむと、後からしみわたる冷えた潤いから、煙草によって思うより口の湿り気をかすめ取られていたことに気づかされた。
直治はボトルの中身を全て飲み干してしまうとキッチンのゴミ箱へ空を潰して放った。その後にベッドのそばまで帰ってゆっくりと恵の体に身を沿わせた。
「おかえり」恵が目を瞑ったまま言った。
「ごめん、起こしたね」
「大丈夫」
声をかけると恵はまた眠りのなかへ沈んだようだった。恵の寝顔の前に置かれた指はやわらかくひらいて無思慮に枕へおもさを預けていた。また彼女を揺り起こしてしまわないように直治は敢えて妻の体からすこし離れたところで寝そべった。横たわってから肌掛けのうえに乗り出している恵の姿を眺め、頬を撫でようと伸びた指先を止めて、リモコンで明かりを消し自らも瞼を閉じた。
コンビニの灰皿の前で煙草を渡した男のことが急に思い出された。その場のほんの思いつきで随分不審に思われるようなことをしたと今さらながらに恥ずかしくなった。しかし相手は受け取ったのだし、何か思われていたとしてもその場限りのことだから構わないと自らに言い聞かせた。
やけに冴えた気分だった。ふと、妻の不倫した相手もあの男ぐらいの年つきだったことを思い出した。直治はその相手に会おうとは思わなかった。謝罪をさせたり、金をむしり取ろうという敵愾心も浮かんではこない。それを恵は優しいと言ったのだろうか。
瞼をひらくと、妻は指の奥で穏やかな寝息をたてている。その景色は夜中にわきたつ鬱屈もざわめく思いも一息になだめてくれた。隣に人がいてやすらいで眠ることができるとは、どんなに稀有なことだろうと直治は思った。
Ⅲ
テーブルの差し向かいに女が座って、煙草を咥えていた。女の顔は定かではなかった。背筋を張って、下で足を組んでいるのか腰が椅子の深くにあった。咥えて保っていた煙草を指で挟んで持ったと思えば、そっぽを向いて煙を吐いた。色のあわい煙は唇の先からまっすぐに流れる内側で渦巻いていった。
あでやかな赤い壁紙の店だった。テーブルの透明な灰皿には二本、色の違う吸い殻が灰のまだら模様の上に転がっていた。他には何も置かれていなかった。
「あのとき、どうして?」
女が灰をはたき落としながら下げた視線は、そのまま直治へと差し向けられた。ねずみの玩具をねらう猫のような目だった。
「どうして?」直治は眉をひそめた。「何故君がそんなことを訊くの」
この女が何者か、直治の胸には予感めいたものだけがひらめいていた。女は何も応えなかった。彼女の仕草はどこか芝居がかっていて、しかしそれが通常の居ずまいであることは直治も了解していた。
「本当は知ってるの」
言いながら女の目はこちらから離れていた。それから女は決して直治の方を見なかった。長い睫毛が常に下へ向いていた。その俯いた表情のまま指で挟んだ煙草をくゆらせ、そっぽを向いて煙を吐き、灰皿の底へ灰をすとんと落とした。その単調な繰り返しが、機械を全く彷彿とさせないことが驚かれた。
「知ってる?」直治は口を開けて笑った。「じゃあ、言ってごらんよ」
こんなにも強気な自分は随分懐かしく感じられた。しかし、いつしかこんな態度を取らなくなったのは、その度に足をすくわれるような経験を重ねてきたからだ。特に親しい女を前にしたときはそうだった。
「私と家族になるのが恐かったんだ」
女の背後に窓があった。茂った葉が折り重なり、暗い緑色の景色を映していた。天気は曇っているらしく葉の間からの光が空気にぬれて漫然とひろがっていた。
「私は決してそんなことは望んでいなかった」
「なら何故僕をそんな目で見る」
女の眼差しは動じなかった。女は決して直治に視線をあてず、指先を見て、窓のふちを見て、灰皿の底を見て、しかし確かに、ずっと睫毛の格子の間から直治のことを覗いていた。
外で木の葉が揺れていた。木の足元には花がひらいてぽつぽつと並んでいた。正面へ視界を返すと眼下に麻婆豆腐の白皿があった。白飯の茶碗も傍らに据えられていた。逆さにして皿にかけてある蓮華を手にとって、麻婆豆腐と白飯を交互にかきこんだ。あかあかした香りと米のやわらかさが口に残り続けた。鼻と額に汗がにじんでくるのを女がかんだかく笑った。平皿のつやめいた白色が、まるで静かに湛えられた乳のようだと直治は思った。
「好きなだけだ」直治はあざ笑うように言った。
「そう。好きなだけ」
女は机上の食事には触れず、相変わらず同じ煙草を吸っていた。
「本当にそれだけ?」
「それだけ」
直治はうらめしい思いで女の顔を見た。そのときはじめて顔貌がはっきりした。かといって見知った顔ではなかった。いたちのような小さな目をした意外に幼いかたちの顔だった。
彼女のしろい腕が、赤い壁紙の前で動いた。腕に注目しているとそれがひとつの生き物のようにも見えた。しかし動いた腕の先、指のつまんでいる煙草が女の小さく開いた口に触れると、やはり身がつながってしまうのだった。
「単純だな」
そのとき女が直治を見て微笑んだ。はじめて確かに「見た」という実感がわいた。
「俺には好きというのが、いくら考えてもわからない」
「教えてあげようか?」女はおもむろに立ち上がり、こちらへ真っ直ぐ歩み寄った。
直治の答えを待つことなく、ひろがる景色を全て覆って女の赤い服をまとった身体が現れた。布越しに彼女のみぞおちが波打っているのがわかった。
「拒まないで」
彼女の言うとおりに頭を胸の上に預けた。抱擁の快楽を、直治は久しく感じていなかったことを思わされた。女の身に吸われるように身体に淀んでいたものがながれていった。
やがて頭を預けた胸がしずみこみ、女が深く息をするのがわかった。煙を吐いたらしかった。吐かれた煙はやはり、真っ直ぐにつきすすむようで、内側はうずまいているのだろう。次第にうずが流れをのみこんで空気のゆらめきをなぞりながら膨らんでいく。店の天井の下をさまよいつくした挙げ句、窓の外にひろがる森へ飛びだすものもあるだろう。風になびいている花の上をたなびき、茂りつくした枝葉の隙間をすりぬけ、白くぬれた群雲のもとへ顔をのぞかせるときは、煙の色などはずっとうすくなっている。いま女の吐き出す煙を見ることは二度とはかなわない。そう思うと不意に切なさがこみ上げてしようがなくなった。
あてこすられる女の胸のやわらかさをいやというほど鼻と頬にうけながら直治は顔をあげた。
あげた先には妻の顔があった。その瞼のあたりから直治はしばらく焦点を動かせなかった。カーテンを透けてしかれたやわらかい光が妻の顔を照らしていた。なおもその顔を見つめていると、頬が重たそうにもりあがり、しかめられた顔の中から目を二つ開けた。細く開いた穴から瞳の端がのぞいた。桃色に張った唇が小さく開いて、一瞬前とはちがった深い呼吸があったと思えば、瞼がちいさな蜘蛛のようにぴくりと飛んで開ききった。
「直治」瞳が直治の顔をとらえた。「おはよう」
「おはよう」
声は淀みなく出た。