漂流
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かなしみの掌編Ⅰ・Ⅱ

辻井紀代彦

Ⅰ 蛇の卵

 夏の暮れのある日、英二は乗り込んだバスの車窓から、一棟の鉄塔を眺めて心を奪われた。住宅街を抜けていくバスが小川の橋の上を渡ったとき、一気にひらけた景色の先に鉄塔はそびえていた。川辺に整えられた、のどかに広い道の其処此処に揺れる草葉は夕光に染まり、高く茂っていた。

 英二の眼は、頭上に草の穂を仰ぎ見るほどだった少年時代を映していた。草藪の中へ彼と遊んでいた友人たちは果敢に踏み入っていった。英二は蛇の卵を探すと言って冒険に勇んでいく友人たちの背を見守りながら、隣に突っ立っている一団で唯一人の女の子に対して気を配っていた。

「あなたは入らないの」少女が睨むような眼差しでこちらを見た。二重瞼の冷涼な目がつり上がって自分を刺すのは、妙な胸騒ぎを催させた。

「君はどうするの」

「私は帰る」

「そう──」

 草っ原から這い出してアスファルトの上を横切る蛇を見るまでは、彼らは鬼ごっことか、隠れんぼのありふれた遊びに夢中だった。

「おれ、さっき卵を見た」

 と声高に叫んだ少年がいて、そのひと声に一同は蛇の巣への好奇心で胸を一杯にしてしまったらしかった。少女が顔を曇らせたのは、一際わんぱくな少年が、巣を荒らして卵を壊そうと皆を煽り始めたときだった。英二は一団の熱狂に控えめに乗りながら、苛立ちをにじませる彼女の顔つきにも気が付いた。しかし彼も、ごく自然に興奮する少年たちの一人だった。娘がわんぱくの少年にたてついて口論を始めたときは英二も言葉少なながら野次を飛ばした。毒蛇であれば危険だから、屠ってしまうのがいいというのが、彼らの一応の大義名分となっていた。子供たちは集団で支える大義という初めてのものに熱狂した。そして力のない批判はおあつらえ向きに、無邪気な暴力に昂ぶる彼らをむしろ煽った。かくて少女の意見には誰も耳を貸さず、皆次々に蛇の卵を草むらへと探り入った。

 怒りに頬を締めてその背を見送る少女の顔に、英二は見惚れた。人の顔をぼうっと見て胸にわきたつ悦びを、英二は大義に傅く情動よりもずっと心根の深いところから感じた。そういう眼差しの光に灼かれてきたかのように、少女は浅黒い肌をしていた。

 肌を浅黒く灼かれたまま気に懸けない女性を、大人になった英二は殆ど見なくなった。それはもはや彼の記憶にだけ焼き付いて失われてしまった色だった。恋を知ったばかりの頃にも、肌が日に灼けた人と付き合ってみたことはなかった。

 彼らは中学校の半ばまで同じ学校に通っていたが、部活動に忙しくしているばかりの間に娘を見かけなくなったと気づいたときには、彼女がどこぞの知らない町まで引っ越してしまったあとだった。その頃の英二は別の女生徒との恋に夢中で、知らず知らずの別れに特別な感情を抱いている暇もなかった。背の低い頃の恍惚の記憶さえ、頭からはさっぱり消えてしまっていた。

 英二は既に川辺の道を抜けたバスの座席で言い知れぬ寂しさを味わい、慰めのよすがを瞳に棲み着いた鉄塔の姿に求めていた。

 鉄塔は、夕光を揺らめかす草木の足元へと、基礎をまっすぐに委ね冷たくそびえ立っていた。塔が線を穿ったその部分だけ景色から生き物が失われてしまっているかのようだった。やはり寂しさは思えば思うほどうずたかく募っていき、想い出はかかずらえばかかずらうほど次々瞼の裏に立ち現れ胸をとらえた。

 蛇の藪に入って卵を探した日の翌朝、少女が寄越した一瞥を彼は気にかけなかった。視線に刺された一瞬臆病に慄いたばかりで、直後に声をかけてきた友人とやるサッカーの遊びに、彼の意識はいとも簡単に移っていった。実のところ彼らは蛇の卵を見つけたのだが、それは全員が巣探しに飽きて別の遊びを始めてからしばらく経った頃だった。例のわんぱくな少年が遊び疲れた足で巣に向かって勇む様子を見せたものの、誰かが「親蛇が戻ってくるかもしれない」と気に懸けたのに慄いて、大人しく不要な蛮行をよした。

 それを彼女に伝えておけばどうなったろう、と英二は窓の外を眺めながら思った。しかし当時の彼にとっては朝礼の直前まで友人と玉を蹴って遊ぶことの方がよほどの関心事だった。未だ恋というものを気味悪がっている年頃に過ぎなかったのだ。異性と仲良くしているところを笑われる方が、かつて見惚れた顔の美しさを眼の内から失うよりもずっと苦痛であると彼は信じていた。

 バスを降りた英二の頭上には電線が張っていた。妙にぼんやりとした気分だった。道の先に佇んでいる木々が、遠目によく見えた。かなり先まで見渡すことのできる真っ直ぐな道だった。両脇の家屋に切り取られ、垂直に立ち上がる夕空をまばらに渡っている黒い電線は、子供の無邪気な手に壊された蜘蛛の巣の跡にも似ていた。

 英二は無性に、記憶の中で自分を睨んでいる少女の顔に会いたくて寂しくなった。彼は立ち止まらずに目を細め、たそがれている空を仰いで眺めていた。

 英二には妻がいる。もうけた子は既に恋を知る年つきまで育った。記憶の中では幼い娘だった彼女も、同じ様に家庭を持っていておかしいことはない。想いの居着くべきところはどこにもなかった。そもそもそんなことに思いをそやさなくても、もはや遠い日の失恋を乗り越えていくすべがないのは、草むらにわけ入って用もない卵を探すことなどできない体の重さが、鈍くたるんだ腹の下から否みがたく報せていた。

 英二はもう一度あの鉄塔の姿を胸に描いた。生々しい感じの欠片もない、さりながら揺るぎなく築かれている鋼鉄の棒の連なりは、感慨とはまるで縁のない佇まいでこちらを見下ろしていた。その周辺に夕暮れの色は充満して、彼の目を覆った。

 かしこの草は風にたなびいて波立ち、葉の面に陰を煌めかせている。穏やかに流れているせせらぎが、暮れの涼しさに力を太くした蝉の声と重なってくるところに、在りし日の彼らはいた。友人たちは殆どがこの町を離れた。英二の知らないところで、未だ住み着いている者がいたとしても、そのうちの誰一人としてあの頃と同じ姿で川辺に戻ってくることはない。

 ──しかし、蛇の卵は? 幼年の時代から変わることなく高々と茂っている草もとには、或いはあのとき彼らが見逃した蛇の仲間が巣食っているかもしれなかった。少女が破壊されたと思い込んでいた蛇の卵がすくなくともあの場では命を繋いで、しかもそれを伝えずに捨て置いたことは、いまや芳しい秘め事のように思われた。老いのやるせなさをまとい始めた胸に、その想い出はかすかな悦びの匂いを醸した。

 瞳の裏で、しとどに濡れた蛇の鱗が、なめらかに波打っていたのを英二は思い出した。蛇はアスファルトを横切って川の方へ消えていった。こちらには目もくれないその姿が、ゆったりと体をくねらせて動いていた。

Ⅱ 初恋

 さよなら、と朗らかに叫んで、奈緒は自転車にまたがり駆けだした。部活動を終えた生徒たちの多くが、校門を出ると自分とは真逆の道へと散っていった。彼らは、大きなバス通りへ出て駅前の通りの辺りへ帰っていくのだが、奈緒のように山辺に開かれた田畑をくだっていく生徒は少なかった。

 駆けおりる道は、降りしきっていた大雨にアスファルトを濡らしていた。谷向うの民家から視線を昇らせば、二重にかさなる山の峰に、淡い霧がたちこめていた。

 霧にかすむ景色を横目に流しながら、細くうねった道の上を走っていると、小さなため池のあたりを横切ったとき、この場所ですれ違ったきりになっている青年のことが思い出された。

 その日も学校の帰りに自転車を走らせながら、にわか雨の通り過ぎた後のじっとり濡れた夕べの道をくだっていた。畑道の傍にひろがる段々の田の青い稲穂を、ゆったり眺め歩いている背を見て彼女は訝しんだ。あたりで見慣れない雰囲気をした、壮健な男のさっぱりした後姿だった。奈緒は無遠慮に、追い越しざまにその顔を覗き込んだ。穏やかに丸い目を双つ、つつましく並び据えたおおらかな顔つきには見覚えがあった。奈緒が小学校に上がってすぐの頃に都会へ出ていった近所の家の子供で、接点は少なかったが、親の付き合いで面倒を見てもらったことがある。数えてみると、もう三十路の手前にはさしかかった年であるらしかった。奈緒はそうわかると何やら気まずく思えて咄嗟に目を離した。もう一度振り向いて彼に自分がわかったのかを気にしてみると、彼も急にまじまじ見つめられたことを訝しく思っているらしく、眉根をよせてこちらを見送っていた。何かひどい事をしたような気分でひやりとし、彼女はそそくさと走り去った。以来、その青年と顔を合わせる機会はなかった。

 奈緒はゆるやかな坂道を走りながら、道の真ん中に両拳大ほどの石が落ちているのを見つけて、ハンドルを切った。と思うとすぐにブレーキをかけて、その石の傍らに自転車をとめた。石はよくよく見つめると亀の甲羅だった。正面に回ってみると、首をすぼめた亀がさらに慄いて引っ込んだ。亀は、今しがた彼女の横切ったため池から、飛びだして徘徊している途中らしかった。自転車から降りて眺めてみると、柔らかそうな体が、甲羅の中で縮んで収まってしまっている様子がかわいかった。

「奈緒ちゃん」

 やおらに背後から太い声がかかって、彼女は驚いた。振り向くと、あの青年が雨滴を弾く上着に身を包んで立っていた。

「おとんに頼まれて、田んぼの様子見に来ててん。奈緒ちゃんやんな」

「はい」

 思わぬことで、口もとがよく動かずしどろもどろだった。彼に向き直った奈緒は、かしこまって固まり、俯いてしまった。

「大きなったな」

 青年の声はその双眸のつき方に似ておおらかだった。

「俺のこと覚えとる? 近所に住んどった──」

「ええ、まあ」

「ほっとしたわ」緩やかにふくらんだ頬が、ほどけるように微笑を浮かべた。見ているだけで肩をひきしめていた身体がほつれるような、やわらかい面持ちだった。「また、このへんに越してきたから。よろしゅうね」

「はい」彼の顔から、思わず奈緒は視線を外して長靴にこびりついている泥を数えた。「よろしくお願いします」

「うん、ほなまた」

 奈緒の堅苦しい挨拶を青年がからかうようなことはなく、彼はにこやかに笑いながら頼もしい背中を向けて去っていった。

 ペダルを漕ぎ始めると、今の自分より少し上ぐらいの年つきだった彼に、手をとって遊んでもらった想い出が盛り上がった。甲羅に閉じ込もった亀の愛らしい姿などはすぐに淡くなってしまった。

 鈴虫の声がのどかにころころ鳴くときになっても、奈緒の胸を覆った興奮は仄かに心の片隅を温めていた。網戸にしておいた窓から、夜風が涼しく吹き抜け、肌の上に淀んだ熱をわずかに拭い去った。

 奈緒は布団の上にうずくまりながら、揺れるカーテン越しに夜闇の中を見つめた。雲の間から顔を出した月明かりによって、庭石がほの白く浮かび上がっている。

 雲を貫いて漂う月の光は、やわらかに彼女を癒やした。遠い踏切の音がはるかに鳴り響き、田端の水路のせせらぎの上を叩いた。奈緒はそのとよみに、青年の長靴が露垂れる草をたくましくわけ、濡れた土を踏みしめながら歩んでいく光景を想った。山々のたたなづく間にひらかれた野原に、青年は安らかな両の足で佇んでいた。紅の日の光を浴びて少し汗ばみながら、彼は怯むことなく、草のそよぐ原を歩んで去っていった。その光景の美しさに奈緒は、ひとり微笑んだ。網戸から忍び入るそよ風に幻から覚めると、静かな夜の輝きに照らされた庭を再び見つめて、彼の充ち足りた姿が傍にないのをうら寂しく想った。胸に錐が突き立っているかのような痛みを、したたかに感じて振りほどけない。その苦しみの根が、あの青年にあることはすぐにわかって、想いを頭からふり捨てようとするけれども、彼のあのおおらかな面貌と声の心地を、むしろ鮮やかに思い出すばかりだった。

(なぜ、彼と遊んでもらっていた頃の私は、彼をもっと深く知りたいと願わなかったんだろう──こんな思いをするなら、もっと早くに彼とお話しておけばよかった。もっと彼に、私のことを知ってもらえばよかった)

 虫の声も、水のとよむ音も静かだった。奈緒は明日、彼のもとに自ら会いに行こうと思い立った。それは不自然なことではないはずだった。一度くらい、昔世話を焼いてもらったお礼をしなければならない。しかし、どうやって──? 学校の友人とふざけ合うことのほかに人との付き合い方を知らない少女にとって、それは未踏の暗黒だった。だがともかくも、自分は明日、彼の傍へ会いに行くのだ。そう思うと、布団の上の彼女の胸には不安よりも滲みやまない興奮があらわれていた。

 したたかな風が吹き、外で稲穂が揺らめいた。山の木々のさざめきも聞こえてくるようだった。覆う雲が逃れ去ったのか、月陰はよりはっきりと世々のものを照らし、隣り合う屋根の遠い向こうに山の稜線がうっすらそびえ立った。なだらかな連なりのなかでも一際高い山が、手前に重なる尾根の上から丸い峰で穏やかに天を衝き、その足を垂らしていた。

 膝の前でかたく結び合っていた奈緒の腕がほどけ落ち、口元は緩くひらいた。まるでうなだれるかのように肩は傾いて、力なく垂れた。しかしその瞳は、確かに山の姿を仰ぎ見ていた。心を波立たせていた興奮がひたと静まった。夜山の森のように、彼女の心は一筋の重みに引かれて押し黙った。そして、その真っ直ぐな重みにって、掌を合わせた諸手が胸の前まで静かにのぼった。彼女が瞼を閉じて俯く姿は、誰の目に留まるよしもなく、ただ月の白い光のもとにひっそりと浮かんで、美しい匂いを醸していた。



Ⅲ 夢枕



『漂流』vol.2に収録

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